教室の先生や
教室に関わる人物を紹介する
「つたえ隊」。
第13回目は、絵画教室
望月明彦先生。
絵を描く人は、愛に溢れた人だと思うことがある。観察力や洞察力、その人の目が反映されるのが絵だ。
目の前の対象を見つめ、形容詞をそのタッチで絵に表現してゆく。時にやさしく、時に厳しく…創作とはやさしいスキンシップのようなものだと望月先生を取材して感じた。
「絵は自己表現のひとつの手段。上手に描けなくても、その未完成こそが魅力です。」
そんな彼と「ならいごと」との関わりについて聞いてみた。
僕の可能性を広げた絵の存在
僕は小さい頃、スムーズに言葉がしゃべれなくて悩んでいました。自分ができることを見つけたくて、デッサンを勉強していたんです。
ある時、「しゃべれないから緊張するのか、緊張するからしゃべれないのか」と人に聞かれたんです。それが、「描き方を知っているから描けるのか、描きたいものがあるから描けるのか」ということに繋がり、ふと気づきました。人に言いたいことがあるから伝わるのであって、上手な言葉を知っているから伝わるわけではないと。とても楽になり、そこからはすごくおしゃべりになりましたね(笑)。
絵はこんなに楽しいものだ、自分を楽にする表現のひとつであって、何を伝えたいのかさえあればいいんです。生徒さんを上手に描けるようにすることも大切ですが、絵を介して伝えたいことはそれですね。
軽い気持ちで絵の世界へ
小さい頃、修道院の絵画教室に行っていましたが、大学に入るまでしっかりと絵を学んだことはありませんでした。チラシの裏にガンダムばかり描いてましたが、こうしろ、ああしろとは言わず、シスターは自由に描かせてくれていました。小学校の時は、一番前の席で好き勝手やっていました。授業中、粘土やマッチ棒で立体的に戦艦ヤマトを作ったり(笑)。子どもなりに考えながら作って楽しんでいました。
僕は高校3年間、1秒たりとも勉強しませんでしたが、受験を考えた時、たまたま発見したのが美大。絵を描いて大学に入れるなんて楽だなという感覚で志したんです。絵は好きで描いていましたが、結果、5年浪人。目指しだしたらとんでもない世界でした。でも油画を専攻した大学で、こんなところ勉強するところじゃないと言い放ち、オブジェばかり作っていました。思うところがあって卒業しなかったんです。青かったですね(笑)。
未完成を肯定する
ここを教えているのは、吉祥寺の美術学院の恩師の影響です。秋山先生は僕の絵を一番絶賛し、一番ダメ出ししてくれた人です。先生からは絵を言語化する意識を学びました。絵を言語化して整理し、何を目的としてやっているのかを考えること。芸術はただ自分の感覚を押し付けるものではなく、なぜ評価されているのかというポイントを理解することが必要と教わりましたね。
目には見ようとするものだけが見えていて、全てが均一に見えることはありません。完全ではなく、不完全で未完成。100%の完成をしてしまうと、ただそれだけのものになってしまう。80%の完成を目指せと教わりました。
100%は上手な絵だね、で終わります。20%の未完成な部分に魅力や表現があることを気づかせてくれました。
絵を言語化する
絵や芸術には、特別な資格がないので、なんだかよく分からないという人もいます。感覚的で分かりづらいもの=絵という誤解を無くしたいので、なるべく言語化したいと僕は思っています。
絵1枚全てを言葉で表現することはできませんが、実物を見た時、言語化したひとつの例が、目の前の絵を理解する手助けになればいいなと思います。感覚だけだと方向性を迷う時がありますが、言葉によって理解の補佐ができるなら、その危険性も少なくなる気がします。
例えば、有機物は左右非対称ですが、球体のように左右対称にきっちり絵を描くと、作り物のような印象になりますよね。非対称性を帯びたものがやわらかく親しみやすい印象があるのはそのためですが、言語化すれば分かりやすくなりますよね。
上手に描けなくても絵は描ける
絵は学問。西洋では、美術は制作活動とともに頭で勉強する芸術学の範疇にあり、哲学でもあり、社会学でもあるんです。日本では、上手に描けるかどうかで美術を志す人が選抜され、結果、美術は上手に描ける人だけが学べるものになっている側面もあります。でも、僕らみたいな民間の学校がやることは、そこ以外にもある気がします。
絵は基本が重要だとよく聞きますが、絵はコミュニケーションのアプローチの仕方のひとつであり、自己表現のひとつ。上手に描くことが絶対条件ではなく、それは要素のひとつ。上手に描けない人は、絵を描いてはいけない、やめなければいけないというわけではないですよね?上手に描いていなくても絵として成立しているものはたくさんあるのですが、小中学校でそんなことは誰も教えてはくれません。
絵は、日常の中で違った頭を使いましょう、いつもと違った見方で物事を見てみましょう、という提案のツールであってもいいと思うんです。
限界は自分が決めている
絵がきっかけとなって、その人の生活に潤いができるといいなと思っています。普通に生活していて気になったものをスケッチし、言葉を添える…それだけでも潤いができますよね。絵が描けないと自分自身で否定してしまう。誰かに見せるわけでもないですから、できない、描けないと否定するのではなく、まずはやってみてもいいんじゃないでしょうか。
受験もそうですが、自分の中でブレーキをかけている人が多いんですよ。自分はそこまでじゃないとかね。絵を描くってことは、見たこのままを描くことじゃないんです。写真ではない。人間の目は見ようとするものだけを見る性質があるので、印象に残った部分が強調されていいと思います。魅力をいかに作るかだから、どんな方法でもOKだし、寄り道してもいい。そこの部分の工夫を諦めると、楽しくないですよね?
自分を押し込めて本質に気づかない人には、絵を描くという行為はピッタリ。生きるのが楽になりますよ。
僕にとっての教室とは
ただ教えているという感覚ではなく、僕自身教えてもらっている、勉強させてもらっているという感覚です。あなた達からお金をもらっていてなんですが、僕が一番勉強させてもらっていますと、生徒には言っています。制作の過程で、僕は生徒にあまり介在し過ぎないようにしています。ただ、俯瞰して見ていて、やり方はこっちの方がいいかなと思えば、そそのかしてそっちの方向でアプローチしてもらうように仕向けることがありますよ(笑)。こういうのやってみません?みたいな。その結果、いいものが出てきてすごく良かったりすると、ヨシ!当たったな!と、喜びを感じる瞬間ですね。
さらに、ここは美大志望の生徒だけでなく、いろんな人が出入りしています。親に言われてくる子、おじいちゃん、中学生、OL。誰が来ても自由に創作できる空間でありたいですね。
まだ形にはなっていませんが、絵が上手になりたい人だけではなく、絵を描くことを通して発想の転換やボケ防止になるようなワークショップをやってみたいと思っています。言葉で説明できない部分を絵で伝えたり…生活の中に文化的なにおいを感じることができると楽しいですよ、という提案をしてみたいです。
望月先生の作品「幽霊画」 *左はロウを使った作品、右は制作途中